教育の現場からのメッセージ

November 24, 2006

これってあたりまえ?(1)

これってあたりまえ?(1)


あたりまえのことが変わってきている。

最近では学校でも子どもたちからの「おはよう」の声があまり
聞かれない。
近所でも心ある大人はきちんと声をかける。


こちらから声をかければ、ようやく恥すかしがりながら返事を
する子ども。


挨拶しない子どもにしない配慮をする責任が大人には在る。
基本の基本とも思われることがあたりまえではなくなっている。


就職試験の面接でも基本的な挨拶・礼を意識しないし、できない
子どもが増えている。
きちんと挨拶一礼ができれば採用してもらえるのでは‥・と
思うくらいだ。

どうしてかなと考える。

 
数人の保護者から聞いたところによると、子供が起きたときには
親がもう仕事に出てしまっている家庭が「なにげに」多い。


子どもが学校に出るときには家の鍵をして出かけ、帰る時にも
自分で鍵をあけ、ということがあたりまえになっている。

つまり、親子でも「おはよう」や「いってきます」「おかえり」
など極々あたりまえと思われていた挨拶ができなくなっている。


人との会話のきっかけがこんな調子なのでコミュニケーションも
円滑になるには時間が必要になる。


昨年、とにかく生徒より先におはようと声昨をかけようと決めて、
声をかけ続けました。
すると生徒のほうからかかる声が「フツーに」増えた。


2、3年生は結構自分からおはようという生徒がいる。

前任校では3年でほとんどの生徒が自分から声を出すようになった。
あと2年で(今の1年生が3年生になるころ)少なくとも挨拶だけは
よくする生徒の学校にしたい。


たった一つできるだけで全然違う印象の学校に生まれ変わると
確信している。

 
今は全体で10人に一人ぐらいは自分から声を出してくれる。
先生よりも先に声をかけてくれる。


また声は出さないけれども会釈をする生徒、挨拶をするかしない
かのうちに先生に話し掛ける生徒。

やっぱり挨拶もそこそこに行ってしまう照れ屋さん、服装や髪など
注意を受ける生徒、様々な子どもが今日も正門をくぐってやってくる。
 


英語を教えているためか「言葉で表現させたい」ということを
人一倍思う。


「やっぱり言葉に出して必要なことをきちんと相手に伝えないと」
と思いながらも私自身がぽんと本当に子どもたちと会話をしている
かな、と反省することがある。


次はあいさつプラスひとことをがんばろうと誓う。




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これってあたりまえ?(2)

これってあたりまえ?(2)


最近近の高校生はあまり自分の感情や考えをストレート
に出さない。

時代がそうさせているのか、友達関係がそのほうがすごしやす
いと知っているのか、自分をオブラートに包むことで摩擦の少ない
快適な空間を作り出している。


自己主張することがあまりない。


これがいまどきの高校生のあたりまえなのでしょう。
 
私の場合は、個人が自分の意見を言い(時には傲慢なくらいまで)
PRする「米国」を高校生のときに訪問し滞在した。


以来、なんでもまあまあと穏便に済ます日本人の気質を本気で嫌
いになったことがある。


米国人は自己表現を行い、周りがそれを刺激にしてまた自分を表現し
ていく。
アメリカという国の、外に向かってのおおらかさと気さくさが
とても気に人った。


またホストによくしてもらったこともあり、英語に関わりたい、
先生になりたいということから今に至る。


日本が全て嫌いなわけではないけれど、異質なものを跳ね返し、
排出してしまう島国根性だけは好きになれない。


こんな書き方ををすると日本を嫌いなように見えるが、
日本という国は誰よりも好きだ。


日本の伝統や文化について学び熟練し身につける機会がぜひほしい
と思っている今日この頃である。


日本という国の伝統や独自性とともに個人の独自性も一緒にあたりま
えと認めたいじゃあありませんか。


                        真の家庭より
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November 23, 2006

「罰則」をめぐって(1)

「罰則」をめぐって(1)


私は高校に勤務しています。
私の学校で私は最近、服装などの乱れのテェックを強化
するようになりました。


例えば、登校時に頭髪や女子生徒のスカート丈などを
チェックし、一定回数以上違反したら校長との面接、
その次の段階では親に学校に来てもらう‥・

といった方法をとっています。


確かに、私自身も髪の毛を染めたり、スカート丈が短すぎ
たりするのは、高校生にふさわしくないと感じます。

ただ、それを毎日チェックして罰則で縛ろうという考え方
には抵抗があります。

 
以前は、「おい。〜君(さん)、髪染めてんじゃないか?」
と指摘したときの生徒の反応から、いろいろなやりとりが
生まれました。

論争のようになることもあれば、結果的に「規則は守れよ」
と押し切ることもあります。

ただ、個人的なコミュニケーションの一つの機会だと
思います。


規則を守るということは大切です。

最近規の生徒は規範意識が薄れているというのも事実で
しょう。

罰則を徹底することで、確かに違反者は減ります。
しかし同時に、一対−のふれ合い、ぶつかり合いの場が
減ってしまうという面もあるのではないかとも思います。


何よりも、何が高校生にふさわしいのかということに対する
自発的な問いを育てることにつながるのかどうか、
やはり疑問です。

 
挨拶についても同様のことを感じます。
毎朝、先生が表に出て、「おはよう」と挨拶させる光景を
よく目にします。


見ている側は確かに気持ちいいですし、貴重な努力だとは思
います。
しかし、本当にそれが生徒たちの人格として身につくかどうか
が大切です。


挨拶をして本人が「きもちいい」と感じ、今後につながれば
よいのでしょうが、しようがないから形だけやっていると
いうのでは、その場が終わってしまえば意味がありません。


 

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「罰則」をめぐって(2)

「罰則」をめぐって(2)


私のある同僚は、生徒たちの輪の中に積極的に入っていく、
仲間のように関われるタイプでした。

しかし、そのような検査が実施されるようになってから、
それはできなくなったと言います。

どうしても、生徒を上から統制するような感じになって
しまい、中途半端に生徒の輪の中に入ろうとすると、
逆にギクシャクしてしまう。

だから、あえて今は生徒たちとは距離をとらざるを得ない、
とのことでした。



今回の件では生徒一教師間だけではなく、教師間の関係
にも距離を感じます。

職員会議などで、そのことを話し合おうとしてもあまり
意見が出ません。

多くの教師は、内心では疑問を感じながらも、
「やむを得ない」というとらえ方をしているようです。
 

現実的に忙しいというのもあるでしょうし、話しても
お互いの立場の違いが際立ってくるだけ、というイメージが
あるのかも知れません。

簡単ではないでしょうが、このようなもどかしさを一つ一つ
解消していくことは、やはり大切だと思います。

より深いコミュニケーションが望まれるところです。



                   真の家庭より
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November 22, 2006

学校に怒鳴り込む親(1)

学校に怒鳴り込む親(1)

       
今年で私の高校教師生活も30年目を迎えた。

よく人から「30年の問で学校は変わったでしよう」と聞かれる。
確かに、学校を取り巷く環境はかなり変わった。

学校の教材や施設などはかなり良くなったと思う。
しかし、これは社会が発展すれぱ、それに合わせて環境が
良くなるのは当たり前で、当然のことといえる。

        
「学校は変わりましたか」という質問には、もっと内的な意味合いが
含まれているのだろう。

すなわち、「生徒や教師の質」、あるいは「学校を取り巻く
地域社会との関係」といった点を示していると思う。

「生徒』についてみると、私はこの30年間本質的には
変わっていないと思っている。


みな少年らしい純粋な目をしているし、部活を行っている子供たち
真剣に取り組んでいる。

そんな子供たちの姿を見ていると、昔も今も変わらないと実感する。

        
逆に、「保護者の質」は大きく変わった。
子どもに関することを「学校にぶつけてくる」。

七月は学校祭の季節だが、この期間は午後九時までには帰宅する
ように生徒に指導していた。


ところが、まだ帰宅していないのか、保護者から
「うちの息子が十一時にもなって帰ってこない。
学校は何を指導しているのか」と電話で怒鳴り込んでくる。

まるで学校を日頃の子どもへのうっぷんや不満のはけ□にしている
ような口調である。

        
普通であれば、「何年利組の○○の親です。
子どもがまだ帰宅していないのですが、何かあったのでしょうか」と
聞いてくるものだと思うが、名前も言わすに一方的に怒鳴り込んで
くるケースが目立つようになった。


この原因には、親と子どものコミュニケーション不足にある。

生徒には知らせてあるのだが、子どもが現に知らせていないのだ。
生徒の名前が分からないため、直接指導もできない。


全校集会のときに注意を促すだけだから、効力も低くなってしまう
というわけだ。




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学校に怒鳴り込む親(2)

学校に怒鳴り込む親(2)


別の学校の教師に聴いた話だが、こんなことがあったという。

ある子どもが万引きをして、そこの店長がその親を呼んだところ、
「万引きぐらいで、この子どもの芽を摘むのか」と怒鳴ったという。


それで学校に報告したところ、その親は教師に向かって、
「万引きぐらいで親が詫びを入れなければならないのか」と
食ってかかったという。


善悪の分からない子どもの時期に、悪の芽を摘んでおく
必要がある。

そのため、しっかりと叱り教え込まなければならないにも
かかわらず、それをせすに、子どもが不品行なことをすると、
学校に責任転嫁する親がどれほど増えていることか、と
思わざるを得ない。

 
ところで、生徒の帰宅時間が遅い、あるいは遅刻、
欠席が多くなるというのは、一つの危険信号といっていい。


進学を目指して勉強に打ち込んでいる子、部活に一生悪命
取り組んでいる子は生活のリズムがはっきりしている。


部活にも人らず、勉強にも身が入らすブラブラしている子。
バイトに熱中している子、パソコンのゲームやチャットに
はまっている子は、生活のリズムが狂い出し、
最終的に学校に来なくなってしまう。


ちなみに、指導困難校という言葉がある。

これは、卒業できない生徒の割合が30〜40%存在する高校をいうが、
このような学校にはカウンセラーをおくことができる。


もっとも、このような学校は特別ともいえるが、
私は全ての学校にカウンセラーをおいてもらいたいと思っている。

たとえ卒業できない生徒の割合が数%であっても、
その子の一生の問題と捉えるならば、カウンセラーは絶対に必要だ。


現在は、自治体が財政難のため、予算がつかないとのことだが、
それならば地域のボランティアを利用するなど早急に対策を
練る必要があると思う。


子どもの非行に対しては、もちろん学校側にも責任がある。

生徒からの信号を見抜けないのは、教師にも落ち度がある。

現在、学校側が要請しているカウンセラーのような仕事は、
以前は教師が行っていた。

教師と生徒の家族とのつながりもあった。


最近は教師が狭き門であるため、一流大学卒業の教師が増えているが、
人間関係をうまく作ることが苦手という教師も増えている。


学生時代、サークルや部活を行った経験がない。
そういう意味ではプロの教師が少なくなった。


教育とは単に知識を伝えるだけでなく、先生と生徒との肌身を
つき合わせた関係性の構築だと思うが、生徒だけでなく教師をも
指導しなければならない立場になっている今、
もう一度、教育の原点に立ち帰らなければならないと考えている。
             
                   

                       真の家庭より
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November 21, 2006

不思議なものがわからない子供たち(1)


不思議なものがわからない子供たち(1)


私は小学校の教師をしています。

最近、生徒私たちの姿を見て、感じたことがあります。

人間には本来、「知りたい」という好奇心があります。
教育とは、その好奇心をまず最大限伸ぱすことから始まると
思います。

好奇心が広がると、自らの意思で学ぶようになります。


ところが、今の子供は、好奇心を出す時がない。


覚えることがたくさんありすぎるからです。
受験勉強がその際たるものです。


あれも知りたい、これも知りたい、という末に受験勉強が
あるのであればいいのですが、受験勉強のためにのみ勉強する
のであれば、それは楽しさよりも苦しみが先にたちます。


わが校の卒業生で中学校まで成績がトップクラスの生徒が
いました。

その生徒が進学高校に入学したところ、成績はビリの方でした。

一生懸命勉強したけれど上がらない。
そのうち、自信をなくしてうつ病になり、学校を辞めてしまいました。

受験勉強の悲劇の一つです。


現在は物覚えのいい生徒が評価される社会になっています。
自ら発想し、自ら疑問を持つ生徒は尊重されない。


私たちが子どもの頃は、何でも質問して先生を困らせていた
ものでした。


ところが、今の生徒は黙って聞いているだけ。

理科離れが深刻だといっていますが、そうさせたのは
大人たちだということに気づくべきだと思います。



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不思議なものがわからない子供たち(2)

不思議なものがわからない子供たち(2)


自然科学の原点は「不思議を発見すること」から始まります。

不思議なことは教えてもらうものではなく、個々人が感じるもの
ではないでしょうか。

そういう面からすれば、動物園や植物園、博物館は不思議の宝庫と
いっていいでしょう。

 
先日生徒たちを連れて動物園に行ってきましたが、
そこで色々と考えさせられました。

動物園に行っても、子どもたちは説明文を読んで、それぞれの動物や
展示物を見ながら素通りしていくだけなのです。

それでは自然科学への探究心は育ちません。


「不思議なことはないかな」という意識で自然界を見ると、
必ず不思議なことが見えてきます。

そうして、その回答を考える。何十通りの答えが出てくる。
実はその中から新発見が現れるのではないでしょうか。


ところが、今の子どもには、疑問を発する力がない。
疑問を持つ心、疑問を持つ感性を育てていく必要があると思います。

「よくその疑問を持つことが出来たね」とほめてあげる。
しかし、答えを教えてはいけない。

答えは子どもたちが自ら考える。

これは時間がかかりますが、非常に大切なことです。
ただ、現在は、その考える時間を惜しんでいるところに問題がある
のではないでしょうか。


最近、キレル大人、子どもが多い。

その原因は家庭、社会を含めた教育にあるのは間違いありません。
情操教育の欠如も要因の一つですが、画一教育も問題です。


画一教育の目的は、人間を一つの型にはめようとするところにあ
ります。
小中高校すべて、決められた時間内に学習しなければ駄目という
方針です。

決められた時間内で、教えられた公式を使っていかにたくさんの
問題を解くことができます。

したがって、分からない問題を自ら何時間も考えて解くという
仕組みになっていません。


これでは持久力、集中力、忍耐力は育ちません。

昔は公式を知らなくても、時間をかけて何とか問題を解いた
ものですが、今はそのようにさせてくれる教育者が少ない。


そして記憶力のいい子だけが評価される。

そうした歪んだ教育体制が、社会の歪みを生む結果になっている
のではないでしょうか。

                         真の家庭より
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November 20, 2006

教育の根本に人格教育を(1)

教育の根本に人格教育を(1)


私は、中高一貫の進学校と言われる学校に勤務しています。

今年度は新1年生を担当し、とても素直で純真な姿に
大変感動しています。

なぜ、このように最初は純真で素直な生徒たちが、
学年を加えていくに従い騒がしく悪くなっていくのかが、
不思議でなりません。

これまで担当してきた生徒は、ちょうど学校の学年から言えば、
中間段階の位置に当たります。
一般のクラスとして大変騒がしく、期が進むに従って
その状態はその度合いを増してきました。

注意しても、それをかえって面白がるようになったり、
授業中の注意を聞こうとせず、真面目に授業に取り組む生徒には、
明らかに妨害にしかならないような状況を呈すること度々でした。


何故このような現象が起こるのか大変不思議に思ったものです。


おそらく、このような現象は、戦後日本の経済復興の施策の中で、
経済にのみ目が向けられ、先進諸国の合理主義的資本主義の
採用の中で物質面の復興にのみ神経が注がれ、
人として最も大切な人間としての生き方を教育することが
忘れられたこと。

そして、社会が要求する社会的地位に就き、
社会的安定と物質的豊かさを獲得するための現実社会の処世術的
教育にのみ社会全般が目を向けてきた結果の弊害では
ないかと思われます。


その結束が「得点至上主義」的なものの考え方を生み、
親もその考えのもとで子どもに接し、教育し期待してきた。


その結果として、今日の歪んだ教育の現状を生み出してきたの
ではないかと思われます。





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教育の根本に人格教育を(2)

教育の根本に人格教育を(2)


私が勤務する学校は歴史も古く、創設者の意思は
武士道精神をモットーとした質実・剛健・勇猛果敢と
いうものでしたが、今はその面影を感じるにはあまりにも
悲しい現状のようです。


得点至上主義と合理主義、そしてそれを手に入れるための
利己主義的考えには、将来の日本の国の姿を考えた時、
実に寒々としたものを感じざるを得ません。


このような生徒たちの姿を生み出してしまったのは、
今社会の中核となっている親たちの人生の価値観の履き違えから
くる思想に他ならないと考えるます。

このような現状で、将来の社会が、大きくは国が、良い方向に
向かうどころか、ますます悪化の道をたどることを思うのです。

これは決して見過ごしていてはいけないことと思います。


人が人として生きることの本来の価値観を、
教師たちが親と連携して徹底的に教育していかなければなりません。

そのような人格教育を教育の根本に据えなければならないと
思っています。


授業の短い時間の中でも人生観を考えさせたいと思いながら、
端々で「人生とは人格完成の旅路だよ」
「勉強もそのためのものでなければならないよ」と言うと、
好ましくない授業の状況の中にあっても、素直に真面目に捉えて
応えてくれる生徒たちがいることを知り、喜びも感じています。


小さくは教師一人ひとりの心がけから、そして学校全体への
取り組みとして努力していく忍耐と勇気ある取り組みとして
進展させ、ひいては社会の公的教育機関への浸透という
忍耐と時間をかけての努力が必要ではないかと考えております。

                   真の家庭より
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